-after days-
早朝散歩 / 眠さで死ねる / 朝7時、空は暗い / 生気がぬけた顔ばかり / 雲間の光が眩しくて /
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眠さで死ねる 「やっと…終わった…」 ヒクヒクと痙攣して落ちかける瞼。眼球に無理な力を入れて押し返して見直しをする。最後の気力を振り絞ってレポートをメールに添付、送信。 と同時に、私は椅子からずるずると身体を滑らせ地面に突っ伏した。 「きもちひー」 冷たいフローリングがダルく熱をもった手足を冷やす。指先にじわじわと心地のいいしびれを感じ、体ごと床の中に沈んでいく気がした。徹夜明けの疲れ切った肢体の末端が、切り離されたようにうずくこの感覚は堪らない。頭の後ろも、髪の毛を挟んで程よい冷たさが伝わってくる。膝のあたりに机の上から放り出した本の角が当たるけれど、この重たい感覚が気持よくて指の先1ミリだって動かしたくない。 本が焼けるからと付けた遮光カーテンが、ほんのり朝日に照らされて透けている。その隙間から入ってくる朝の香り。聞こえてくるカラスの鳴き声、雀の鳴き声、まだ人間が活動していない時間帯から外は賑やかである。 ガタッと、階下から音がした。マスターがもう起きているらしい。 ということは……。 霞む思考をいったんストップさせた。あ、寝そう。と思ったが、案の定コーヒーの香りが家中立ち込めた。慣れ親んだが香りが鼻孔に充満する。鼻毛一本一本が香りを求めて立ち上がり、スカスカのスポンジみたいになった脳みその細部まで行き渡る。きっと今、私にしか分泌されないカフェインを求めるナントカ波が発生して血管の中を流れ始めた。 限界。餌付けされた体がマスターのコーヒーを求めている。 「起きる…」と一人ごちて立ち上がった。眠さで傾く首と体を治す気力はない。
階段を下りてドアを開ける。昨晩使われたグラスがカウンターの隅っこに洗って干してあるままだ。二人用のテーブルも椅子が逆さになって乗せられている。ところどころに置かれたランプは灯っていない。窓は開け放たれていて、カーテンが風になびき、差し込む光は店内を白く映した。 朝の風の香りは好きだ。この地では「新鮮」とか「さわやか」とか表現されるらしい。昨日一日かけて溜まった膿を全て捨て払い、今日はまだ汚れていない香り。単に人間が何時間か行動していなかったから地上に舞い上がった埃が落ち着いているだけなのだろうけれど、この香りを胸一杯に吸い込むと、確かに洗われた気持ちになるから、人間なんてホントに単純だなって思う。 「マスター、おはよう……」と声をかけたが、いない。 コーヒーメーカーはコポコポと音を立てているのに、スイッチを入れた本人はどこに行ったのかしら。とりあえずコーヒーを一杯拝借して、カウンターに座る。鼻の穴をひくひくさせて思いっきり香りを堪能し、それから一口。こんな姿を見られたらマスターに怒られるだろうな、と頭の隅で思った。 液体は舌の上を一撫でして食道をするすると通過すると共に、気化した黒い宝石はまたも鼻を通って頭に抜ける。細胞のひとつひとつに染み込んでいくよう。幸せいっぱいで、でろん、とカウンターに突っ伏した。 そして、つい癖で今日のスケジュールを確認。私のシフトは19時から。今日は19時から誕生日パーティの予約が入っている。 「準備があるのに手伝わなくていいの?」と聞いたら、「この日くらい、ホントは休んだっていいんだよ」と少し困った顔で言われたのを思い出す。私が気にしていないことを気にするから、マスターは優しくて残酷だ。 指先が不意に、前髪の生え際を、カリカリ、と掻く。 コーヒーを飲み干して勝手口から外へ出た。 その横に小さく盛られた土の山とプレートは、何度も何度も向かい合っているのに、言葉にできない気持ちが渦巻いて来る。罪悪感、希望、後悔、切望…どれにしたったて私の勝手な思い込みでしかないから、何を感じて何を思えばいいのか分からなくなる。それを教えてくれる人は誰もいない。 この日を気にしていないなら、あの頃に思いを馳せることがないなら、敷地内にこんな物を作らない。 「お母様、お父様、皆、おはようございます」 花壇の向こうは空き地。散歩している人がいなければいいけれど。もし誰かいたら、その人は私を野菜に話しかける頭のいかれたの変な女に見えるだろうか。 今日、うちの店で誕生日パーティが開かれます。20歳の女の子だそうです。どんな子なのでしょう。私も今日、20歳になる予定でした。けれど、この地で19歳になります。もう里の数え方で年を重ねる人間はいなくなってしまいました。ごめんなさい。 それでも、私に生を与えてくれた母と父に、そして、私を支えてくれたありとあらゆる人や植物や動物、地上のすべてに感謝の祈りをささげたいと思います。 心の中で伝えて、おでこを土につけた。地上を支える大地の精気がおでこを通して体の中に流れ込む…という考え方はこの地ではしないらしい。忘れようと思っても、捨てることのできない体に染みついた一族の癖。 「だめだ。このまま寝れる…」コテンと土盛りを枕に横になった。バチが当たるとは言われないだろう。太陽が頬を照らす。里の太陽よりも、ずっと遠いところにある太陽。柔らかい日光は余計眠気を誘うだけだ。 年頃の女の子が頭やほっぺで土とキスして眠っているようでは色気がないわね。仕方ない、性分だもの。ああ、でもいくら早朝とはいえ、このまま横向きで夏の日光を浴びていたら顔半分だけ焼けてしまう。それは阻止せねば。それに、もしかしたら日射病になってしまうかもしれないし、黙って花壇で寝てたらどこかに行っちゃったマスターが戻ってきて「どこに消えた?」心配するかも。 でも、もうちょっとだけいいよね……。 「ねえ、皆。私幸せなんだよ。私だけ一人幸せだなんて言ったら、皆、怒るかな?私だったら許せないかもしれない、一人だけ生きている私のことを」 皆の犠牲の上にしか、今の私の幸せは成り立たないもの。それでも、せっかく残ってしまった私の心と体を土の上から勝手に消してはいけないと思った。だから、私はこの国で、マスターと一緒に生きていくことにしたの。 我がままでごめんなさい。感謝の気持ちと謝罪の気持ちと、どっちが強いのかな。謝罪っていうと、安っぽくて無感情で形式ばっていて違う気がする。この気持ちはたぶん後悔に近い。胸を抉るような痛みは、きっといつまでも風化することがない。どんなに月日が経っても、お母さんになっても、おばあちゃんになっても、きっと私が生を受けたこの日と、里がなくなったあの日には、チリチリと胸が痛くなるのだろう。 土の中の皆が私のことをどう思っているか、想像してもそれは結局私の想像でしかないから知ることはできなくて、マスターやこのことを知っている友達は、皆が私を怨むわけないって慰めてくれるけども、実際の所は分からない。分かるわけがない。 「それでも、今日20歳になって、名前を授かりたかったな」 この地の赤ん坊は0歳で生まれてくるのだそうです。私たちは0歳をお母さんのおなかの中で過ごすから生まれてくるときは1歳。それが変わっている考え方なのだと里を出てから知りました。だから、この地では今日20歳にはなれないのです。 そして、生まれた時に授かる本当の私の名前を知っている人は、もうどこにもいない。 「ごめんなさい。それでも、私に生を与えてくれてありがとう」 この地では、誕生日は本人が主役だそうです。誕生日が両親に感謝する記念日というのも、私たちの里の特有の考え方なのだそうです。
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